〜アジアの風にのって 素朴なぬくもり おとどけします〜

2016年8月11日木曜日

お白湯

こんにちは。ガネーシャママです。
山はきっと凉しいんだろうなぁ〜
下界は今日も暑いですね。

店番しながらお白湯飲んでます。
家から水筒に入れてきた白湯です。
白湯と書いて「さゆ」と読むのよ。
水を沸かしただけのただのお湯ですね。
暑いとついつい冷たいモノを飲み過ぎちゃうので胃腸も大変じゃない?の白湯ですの。
珈琲、紅茶、緑茶じゃなくてただの白湯ね。
白湯で思い出すのは、赤ちゃんがいた頃のこと。
お風呂上がりの湯冷まし(白湯)を用意してお風呂にいれたことや、哺乳瓶を嫌がってなかなか上手に飲んでくれなかったこと、ちょっと懐かしい記憶です。
家では年中麦茶を作ってます。
今年の夏は麦茶じゃなくてハトムギ茶にしてみました。
先月めちゃめちゃ日焼けしたから、ハトムギは肌に良いそうなので...ね。
気持ちに効くくらいかもしれないけれど、ハトムギ茶もなかなか美味しいです。

わたしが育った家は、今思えば、食べもの(口に入れるもの)にとても気をつかう家でした。
暑いから又は寒いからコレを食べなさい、飲みなさい、
胃腸が弱ってるからコレを食べなさい、アレは今は食べちゃだめ、
喉が痛いならコレを食べなさい、飲みなさい、
風邪気味だったらコレ、治りかけだったらアレ、
子どもの頃は好き嫌いが多くて偏食だったわたしに「食べる意味」をわからせるようにしていたのかもしれません。
母は特別に料理が得意なわけじゃなく、子供向けの料理が作れるわけでもないけど、季節の折々や体調に合わせて食事を用意するのが当たり前の家でした。
今は父と二人暮らしだけれど、「何が食べたい」より「何を食べたら良い」に重きを置いているのは変わりません。
まるでマクロビかチャングムか、、、^^;
なんの勉強をしたわけでもないけれど、食材を買う時、ごはんを作る時、食事をする時、無意識に求めるものが在るのは生まれ育った家のせいかもしれない。
と、齢を重ねるごとに強く思います。
食事だけじゃなく、季節に合わせた室礼や行事、住まい方や衣服の調整も同じくでした。
冷房も暖房も今よりもっとアナログだった時代のこと。
たぶん、わたしの家だけじゃなく40〜50年前までは、そういうことは家庭では極々当たり前のことだったように思います。
昔から伝えられていることには、きっと何か理由がある気がします。
それがいい理由も、わるい理由も。
科学的根拠がない時代から人がその土地で暮らすために培われた知恵は、長い長い時の中で命を繰り返す間に刻み込まれたDNAが求めるものなのかもしれません。

今はそういう当たり前のことを、なにか新しいこと(のように思わせる)や流行りものに仕掛けているような気がしてなりません。
よくよく考えてみたら、うちの家はそうだったけどねぇ。。。と思うことが多いもの。
それも商売だから仕方ないわねぇ、、、当たり前のことにもお金を取る時代になってしまったようです。
健康や美容の方面から心の在り方や生き方、運勢までひっくるめて物申されると「は?なに言ってんの?」と気持ちのわるい疑問符がいっぱい立ってしまうのは、わたしが未熟者だからかもしれません。
21世紀の世の中はとても便利で、衣食住環境は昔よりずっと快適に暮らせるけれど、己が身のサイクルの調和はかえって難しくなっているのかもしれません。
生物としての本能と社会環境は真逆をいくのかもしれません。
お白湯一杯でいろいろ考える今日この頃です。
残暑きびしき折ですね。
どうぞみなさま、ご自愛くださいませ。